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「挑戦しよう」と意気込み過ぎず、軽い気持ちではじめてみればいい|安直樹 選手×小須田潤太 選手 パラアスリート対談

「挑戦しよう」と意気込み過ぎず、軽い気持ちではじめてみればいい|安直樹 選手×小須田潤太 選手 パラアスリート対談

「挑戦する人を応援する」を掲げているオープンハウスグループは、2024年2月に東京都のパラスポーツ応援プロジェクト「TEAM BEYOND」に加盟。目標に向かって日々努力するパラアスリートをサポートしています。

今回は2人のパラアスリートにインタビュー。車いすバスケットボール選手としてパラリンピックに出場後、車いすフェンシングに転向し、再びパラリンピックの舞台に立った安直樹選手。パラ陸上選手として活躍しながら、パラスノーボードにも挑戦し、東京・北京の夏季と冬季、2大会のパラリンピックに連続出場した小須田潤太選手。競技をまたぎながら、トップアスリートとして活躍する2人にとって、「挑戦」とはどのような意味を持つのでしょうか。障がいを強みに変える視点や、パラスポーツに対する思いが語られました。

  • 安直樹

    1977年、茨城県生まれ。2017年東京メトロ入社。14歳のときに左足股関節骨の病気で手術を受け、後遺症を持つ。車いすバスケットボールを始め、2004年アテネパラリンピック出場。その後、日本人初のプロ選手としてイタリアセリエAなどでプレー。2015年に車いすフェンシングに転向し、パリ2024パラリンピックに出場するなど国内外で活躍。

    1977年、茨城県生まれ。2017年東京メトロ入社。14歳のときに左足股関節骨の病気で手術を受け、後遺症を持つ。車いすバスケットボールを始め、2004年アテネパラリンピック出場。その後、日本人初のプロ選手としてイタリアセリエAなどでプレー。2015年に車いすフェンシングに転向し、パリ2024パラリンピックに出場するなど国内外で活躍。

  • 小須田潤太

    1990年、埼玉県生まれ。2016年オープンハウスグループ入社。2012年(21歳時)に交通事故で右大腿部を切断。2015年にパラ陸上を始め、2017年からパラスノーボードにも挑戦。東京2020パラリンピック・北京2022冬季パラリンピック出場。現在、ミラノ・コルティナ2026冬季パラリンピックでの金メダル獲得に向け、日々トレーニングに励んでいる。

    1990年、埼玉県生まれ。2016年オープンハウスグループ入社。2012年(21歳時)に交通事故で右大腿部を切断。2015年にパラ陸上を始め、2017年からパラスノーボードにも挑戦。東京2020パラリンピック・北京2022冬季パラリンピック出場。現在、ミラノ・コルティナ2026冬季パラリンピックでの金メダル獲得に向け、日々トレーニングに励んでいる。

はじめる理由は、「ただ楽しい」でも「勝てるかも」でも、何だっていい。

―お2人ともパラリンピックに出場するほどのレベルで取り組んでいた競技を途中で変更し、トップレベルまで上り詰め、再びパラリンピックへの出場を果たしています。それぞれ競技を転向した理由は何だったのでしょうか?

安:私は長年、車いすバスケットボールの日本代表としてプレーしてきました。しかし、年齢が上がるにつれて怪我も増え、思うようなプレーができなくなってきたと感じていました。若手選手の台頭も著しい。そんな時、東京でオリンピック・パラリンピックが行われることが決まったのですが、正直、バスケでは東京パラリンピックで日本代表に返り咲けるイメージが湧かなくて。苦渋の決断ではありましたが、別の競技でもう一度、日本代表としてパラリンピックの舞台に立ちたいという思いが強くなり、転向を決めました。

小須田:僕は、パラ陸上を始めるきっかけになった山本篤選手がパラスノーボードに挑戦している姿を見て、自分もやってみようと思いました。事故で右足を失う以前、子どもの頃にスノーボードをやったことはあったのですが、義足でやってみるなんて考えてもいなくて。でも、同じ障がいのある選手が滑っているのを見て、やりたいと思いました。陸上では山本選手に勝てないけれど、「雪の上なら勝てるかも」と直感的に感じたのも、動機の1つですね。

―さまざまなパラスポーツがある中で、安選手はなぜフェンシングを選んだのでしょう?他の競技も候補にはあったのですか?

安:車いすテニス、車いすバドミントン、パラ水泳、シッティングバレー、パラカヌーなどほとんどの競技にトライしたんです。周囲からは、車いすバスケットボールで培ったチェアワークを活かせる競技の方が有利ではないか、と言われましたが、私は純粋に「楽しい」と思える競技を選びたかった。車いすバスケットボールを長く続けられたのは、本気で好きだったからなんです。有利だとか得だとか、そんな理由では競技を選びたくなくて、いろいろ試してみて、心から楽しさを感じられる競技が車いすフェンシングでした。ただ、やればやるほど本当に難しい競技で、今ではとんでもない競技を選んでしまったなと思っています(笑)。

―プレーヤーとして、ご自身が取り組まれている競技の魅力はどんなところだと思いますか?

安:車いすフェンシングは固定された車いすに乗って、相手と至近距離で戦う競技です。審判の「アンガルド(構えて)、プレ(用意)、アレ!(始め!)」という合図で試合が開始されるのですが、そこからは逃げ場のない戦いです。相手の二手先、三手先の動きを読んでプレーしないとすぐに突かれてしまう。それが難しさでもあり、面白さでもありますね。読みが当たって、うまくいった時は快感です。

パリ2024パラリンピック競技大会時の写真(ご本人提供)

小須田:スタートして0.1秒でポイントがつくこともあるんですよね? すごいなぁ。僕はスノーボードクロスという、4人で一斉にスタートして着順を競う種目に取り組んでいます。一緒に滑っている選手にぶつかるし、目の前で選手が派手に転ぶし、もちろん自分も転ぶ。そうして順位が激しく入れ替わり、最後までハラハラドキドキの展開が続くところが最高に面白いですね。見ている人にもそこに魅力を感じてもらえると思います。スノーボードは時速80kmくらい出ることもあるので、コースによってはビビりながら滑ることもありますが、めちゃくちゃ楽しいです。

パラスポーツと健常者のスポーツは全く違う。そう認めれば、違いを武器にできる。

―安選手は、パラスポーツを応援する「TEAM BEYOND」の取り組みで、車いすフェンシングの講師や、漫画家とコラボレーションしたパラスポーツの普及映像「FIND YOUR HERO」にも参加されました。こうした活動に積極的に参加されている背景には、どのような思いがあるのでしょうか?

安:純粋にパラスポーツをもっと多くの人に知ってもらいたいのはもちろん、社会に役立つ活動をしたいという気持ちが強いからです。30年以上アスリートとして活動してきましたが、当初と比べて企業のダイバーシティへの意識は格段に高まっています。その一環としてパラアスリートの採用に積極的な企業も増えました。まだ嘱託や契約社員という雇用形態が一般的ですが、環境は大きく変化してきていると感じています。そうした背景を考えれば「ただ競技だけやっていればいい」とは思いません。競技の枠を超えて社会に貢献できるアスリートでありたいですし、そうした活動を通じて、自分が所属する東京メトロにもプラスの影響を与えたいと考えています。

―お2人は、以前「TEAM BEYOND」のイベントで対面されていて、すごく盛り上がっていましたね。ただ、「パラスポーツ」のイベントとして盛り上がっていて、どうしても健常者のスポーツとは区別されてしまいがちです。このことについては、どう考えますか?

安:私はむしろ、その区別は当たり前のものだと考えています。競技人口もレベルも、パラスポーツと健常者のスポーツでは全く違う。同じように扱うことの方が、違和感があります。

小須田:安選手に同感です。むしろ区別してもらっているからこそ、パラスポーツは成り立っていると思っていて。スノーボードの世界でも、オリンピックやワールドカップに出るような選手は化け物かと思うくらいのレベルなんですよ。

安:そうそう。そういう意味で多くの人がお金を出して見たいと思うのは、健常者のスポーツなんじゃないかと。そこは真摯に受け入れて、自分たちは自分たちで頑張ろうというのが、私のスタンスですね。

小須田:それは決してネガティブな捉え方ではないと思っていて。僕は以前、Instagramにジャンプの練習をする動画を投稿したんですが、30万回以上再生されて、フォロワー数もかなり増えたんです。健常者なら普通にできることも、義足の僕だから注目してもらえる。少数派であることをポジティブに捉えて、自分の武器として発信するのが大事なのかなと思っています。

安:メジャーではないからこそできることを考えることは大事ですよね。私自身、長年パラスポーツ界にいたものの、車いすフェンシングは聞いたこともなかった。でも、当時はパラスポーツの中でも特に花形だった車いすバスケットボールから、よりマイナーな車いすフェンシングに転向したからこそ、1から積み上げていこうという意識が芽生えた気がします。

小須田:僕はパラ陸上を始めた時から今でも、自分がアスリートと名乗るのはおこがましいことだと思っています。たいして経験のない状態で出場した日本選手権で、いきなり2位や3位になってしまったんですよ。周りは「日本で2位なんてすごい」と言うんですけど、「いやいや」と。自分は何者でもない。そういう気持ちでいつも競技に取り組んでいます。でも先日、私と同じ大腿義足の若い男性が、そんな何者でもない自分を目標としている人に挙げてくれているということを知りました。僕自身、山本選手に憧れがあったから頑張って来られたので、そう言ってもらえたのはうれしかったですね。

「挑戦するんだ」と構えすぎず、軽い気持ちでトライすればいい

―最近、障がいのある人を「Challenged(挑戦するチャンスを与えられた人)」と表現することが増えているそうです。お2人は障がいのある人に向けて、挑戦することの意義や魅力をどのように伝えたいですか?

安:正直、障がいのある人に「挑戦する気持ちを持ってほしい」という思いはそこまで持っていません。ただ、私がパラアスリートとして挑戦する姿を見て、何かを感じ取ってくれたらうれしいですね。私の場合は、ずっと「どの舞台だったら自分が輝けるだろうか」と考えて、ステージを探し続けてきました。それが車いすバスケットボールであり、車いすフェンシングだった。ステージが決まったら、それを本気でやるかやらないか。スポーツじゃなくてもいいので、何か自分が納得できる生き方を見つけてほしいですね。

小須田:「挑戦」や「チャレンジ」って、言葉がちょっと堅苦しくないですか? とりあえず何かやってみる、興味があったら動いてみる。意気込み過ぎずに、軽い気持ちでトライするのがいいと思います。僕自身、なんとなく参加した「スポーツ義足で走ってみよう」というランニングイベントで山本篤選手に出会ったことが、今につながっているんです。

安:実は、私も興味もなかった車いすバスケットボールを見に連れて行かれたのが、競技を始めたきっかけだったんです。当時、障がい者スポーツなんて高齢者がリハビリでやるようなものだと思っていたのに、実際に見たら想像の何倍ものスピード感で。競技用の車椅子もかっこよくて、選手たちはぶつかって倒れても起き上がる。すぐさま、「これだ!」と思いましたね。

小須田:そうですよね。僕も走ることには全く興味がなかった。好き嫌いとか、興味のあるなしに関わらず、機会があればやってみる、行ってみるのがすごく大事だと感じています。ありがたいことに僕の場合は、オープンハウスのバックアップがあって、自分が本気になれることをやり続ける事ができています。ただ、確実に言えるのは、僕自身が行動したからこそ今があるということ。障がいがあるかないかは関係なくて、行動し続けることはどんな人にも意味があるはずです。考えずに行動し過ぎて、突っ込んで怪我をすることも多いんですけどね(笑)。

―お2人はパラアスリートとして、今後どんな目標に向かっていくのでしょうか?

小須田:東京パラリンピック、北京パラリンピックの2大会とも、結果は7位でした。だからこそ、シンプルに「メダルを獲りたい」という思いが強くあります。その中でも一番である「金メダル」を。ここからの1年は2026年のミラノ・コルティナダンペッツォパラリンピックを目標に突き進んでいきます。

安:私も2028年ロサンゼルスパラリンピックでのメダル獲得を目標に日々、励んでいきます。その先に目指しているのは、生涯現役でアスリートとして活躍し続けること。決して簡単にできることではありませんが、必ず成し遂げてやろうと思っています。生涯現役を貫きながら、会社やサポートしてくれる人たちへの恩返しの意味も込めて、社会貢献にも取り組んでいきます。

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