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2026パラリンピックでメダルを獲るために。パラアスリート小須田選手が重ねる、「毎日1つずつ」の挑戦

2026パラリンピックでメダルを獲るために。パラアスリート小須田選手が重ねる、「毎日1つずつ」の挑戦

2016年にパラ陸上を始め、瞬く間に頭角を現した小須田潤太選手。2017年からはパラスノーボードにも挑戦し、東京・北京2大会のパラリンピックに連続出場したことで「二刀流」のアスリートとして注目を集めました。事故で右足を失ったことを機に競技の世界に踏み入れた小須田選手は、メディアを通じて「いまでは足を失って心の底から良かったと思っている」とたびたび発言しています。そのマインドはどのように培われたのでしょう? キャリアの原点から現在に至るまで、小須田選手の「挑戦する姿」に迫りました。

  • 小須田潤太

    1990年、埼玉県生まれ。2016年オープンハウスグループ入社。2012年(21歳時)に交通事故で右大腿部を切断。2014年にパラ陸上を始め、2017年からパラスノーボードに挑戦。東京2020パラリンピック・北京2022冬季パラリンピック出場。現在、ミラノ・コルティナ2026冬季パラリンピックでのメダル獲得に向け、日々トレーニングに励んでいる。

    1990年、埼玉県生まれ。2016年オープンハウスグループ入社。2012年(21歳時)に交通事故で右大腿部を切断。2014年にパラ陸上を始め、2017年からパラスノーボードに挑戦。東京2020パラリンピック・北京2022冬季パラリンピック出場。現在、ミラノ・コルティナ2026冬季パラリンピックでのメダル獲得に向け、日々トレーニングに励んでいる。

義足を履こうとすらしなかった男が、「楽しい」に突き動かされてメダルを狙うアスリートに。

ースノーボードと陸上の「二刀流」で知られ、夏季冬季両方のパラリンピックへの出場経験を持つ小須田選手ですが、2021-22シーズンからはスノーボードに専念されています。東京・北京と2つのパラリンピックを経験した上で、そのような決断に至った理由を教えてください。

陸上とスノーボード、どちらの競技もメダルを目指して取り組んでいるつもりではいましたが、パラリンピックを2大会経験し、どちらもメダルは逃したことで、本気度が足りていなかったと痛感しました。本気でメダルを獲りたいなら、1競技だけでも時間が足りない。そう考え、スノーボードに専念することを決めました。いまは、2026年のミラノパラリンピックで金メダルを獲ることを一番の目標に、日々練習に励んでいます。

ーもともと先に始めたのは陸上で、パラ陸上のメダリスト・山本篤選手と出会ったことがきっかけだったそうですね。山本選手のどのようなところに心を動かされたのでしょうか?

当時、足を切断して3年半ほど経っていたのですが、義足を避けて、松葉杖で過ごすことが多かったんです。そんな中、競技用の義足で走り方を学ぶランニングクリニックで篤さんの走る姿を見て「義足であそこまで走れるんだ」と、新鮮な驚きがありました。自分はまともに義足を履こうともしていなかったので、なんて格好いいんだろうと思いましたね。

ーその後、すぐに陸上を始めたのですか?

本格的にやってみたいと思いはしたものの、スポーツ用の義足は70〜80万ほどする高額なものなので、すぐには行動に移せませんでした。ただ、そのランニングクリニックから数カ月後に、篤さんから「一緒に練習しよう」と直接連絡をいただきまして。お古の義足を1本お借りして、一緒に練習したことをきっかけに競技をスタート。翌年の春から大会に出場し始めました。

ー最初の頃、特に苦労したことや難しかったことはどんなことでしたか?

義足がなかなかフィットしなかったことですね。義足は大部分が既製品ですが、ソケットと呼ばれる足を入れる部分は、自分の足の形に合わせてオーダーメイドするんです。さまざまな義肢装具士さんにソケットを作ってもらったり、調整してもらったりしましたが、走る時に脱げてしまい、なかなかうまくいかなくて……。ようやくフィットしてきたのは競技開始から3年ほど経った2019年頃でした。

取材時に実際の義足を見せてくれた小須田選手。

ー苦労しながらも、心折れずに競技を続けられたのはなぜでしょうか。

やっぱり圧倒的に「楽しい」という気持ちが勝っているからですね。僕は足を失ったことで、再び歩けるようになる、走れるようになる喜びを、身をもって知りました。人間の喜びの本質は、そんな風に、できなかったことができるようになることだと思っています。義足を履こうとしなかった自分が、いまは毎日義足を履いて競技に取り組んでいる。自分の力ではどうしようもないことに目を向けるよりも、新しくできるようになったことを数えていきたい。そういうマインドを持てたからこそ、競技を続けられたのだと思います。

ー競技生活の中でモチベーションが下がった時、やる気を保つための秘けつや、意識していることがあれば教えてください。

スノーボードには、ターンやジャンプなど数多くの技があり、習得するためにしなければならないことが山ほどあります。モチベーションを上げるためにも「毎日何かしら1つ新しいことができるようになる」という目標を掲げて、練習に取り組んでいますね。

「頑張ってるね」より「残念だったね」の声に、奮い立たされた。

ーオープンハウスグループで2016年にアスリート採用となり、当初はフルタイムで働かれていたそうですね。社業と練習のバランスを取るのが大変だったと思いますが、デュアルキャリアによって得たものはありましたか?

宅建士の資格も取って、本当に普通に働いていたので、当時は時間が足りないという悩みもあったんですけど、オープンハウスという社員のモチベーションが高い会社に入ったことは、結構大きなターニングポイントになりました。それまで漫然と働いていたのが、一緒に働く仲間から刺激を受け、「自分も目標達成のために頑張ろう」と自然と意識が上がるようになりました。現在は、ほぼ100%競技に集中できる環境を整えていただき、出社する機会も少ないのですが、たまに会う社長や社員からは、直接応援の言葉をいただくこともあり、それが励みになっていますね。

ーこれまでの競技生活の中で、自分を奮い立たせてくれた言葉があれば教えてください。

2019年から大阪体育大学で練習をしていたのですが、練習場の近くには、高齢のご夫婦が切り盛りしている食堂があり、お昼や練習後によく通っていたんです。東京パラリンピックが終わった後、その店に久々に伺ったところ、おばちゃんから一言目にかけられたのは「残念だったねぇ」という言葉でした。自分としては、自己ベストを出した上で7位に入賞できたので、それなりに頑張ったつもりでいたんです。でも、おばちゃんはもっと期待してくれていたんだな、と。パラスポーツをやっていると、「頑張っているね」と声をかけてもらえる機会が多く、それは嬉しいことですが、率直な意見や指摘をもらえることは案外少ない。だからこそ、思ったことをまっすぐ伝えてもらえると奮い立ちますし、一番の応援になる気がします。

ー小須田選手は、「義足の履き方」の動画など、SNSでの発信も積極的にされていらっしゃいますが、それはどのような思いからでしょうか?

これまで、SNSで一番観られたのは、人工のコースでジャンプの練習をする動画で、30万回以上再生されました。後方に1回転する「バックフリップ」という技に挑戦しようとしたところ、1.8回転くらいしてしまったんです。これは、おそらく普通のスノーボーダーが投稿しても面白みのない動画なんですよ。義足の自分だからこそ、再生数が跳ね上がったのだと思います。ただ面白がってもらうだけでもいいですが、僕が篤さんの走りを見て感動したように、「義足でもこんなに動ける」という姿を発信することで、特に同じような障がいのある方に響く部分があるかもしれません。この体を“武器”にして発信を続けることが大事だと感じています。

AIやロボットじゃ伝えられないこともある。生身の人間の挑戦だからこそ、誰かを勇気づけられる。

ー現在の一番の目標として、ミラノパラリンピックでの金メダル獲得を掲げていらっしゃいますが、パラリンピックはやはり特別な大会なのでしょうか?

そうですね。パラリンピックは、ほかの世界大会に比べても出場権を得るためのハードルが高く、トップ選手が集う大会ということもあって、選手村や競技場に流れる空気が違います。残念ながら、東京も北京もコロナ禍でほぼ無観客だったのですが、それでもスタジアムから圧のようなものさえ感じました。また、選手一人ひとりへの注目度もパラリンピックは段違い。人に何かを伝えたい時、大舞台で結果を出したアスリートのほうが説得力がありますよね。誰かにメッセージを伝える活動をしていく上でも、次のパラリンピックでは確実にメダルを獲りにいきたいです。

ー背中を追い続けてきた山本選手は、先日引退を表明されましたが、パラスポーツの普及や後進の育成にも力を尽くされてきた方だと思います。今後、小須田選手が後輩たちにサポートしてあげたいことはありますか。

ここ数年、陸上教室で講師として教える機会をいただいていますが、今後は障がい者向けのスノーボード教室なども開催してみたいと思っています。足を切断した当時、僕の頭には、スノーボードをやってみようという考えはみじんも浮かびませんでした。でも、篤さんが滑っている姿を見たら、自分にも滑れるかもしれないと勇気が湧いてきたんです。多分、AIやロボットじゃダメなんですよね。「山本篤」という人間に直接会って、接したからこそ、心が動いたんです。同じように、僕の姿を見て一人でも勇気を持ってくれる人がいたら、それは本当に大きなことだと思っています。そんな風に、自分自身も誰かを応援する存在になれたら良いですね。

誰かの「かなえたい」を応援したい。

がんばる皆さんの想いに寄り添うサポート活動、
それがO-EN HOUSE PROJECTです。